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図書館で新聞記者になろう!

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 8月8日(土)、神戸市立中央図書館(中央区楠町)で夏休み親子ワークショップ「図書館で新聞記者になろう!」が午前・午後の2回開催され、約40人の親子が参加した。(主催/神戸空襲を記録する会)
 同ワークショップは、1971年発足の市民団体「神戸空襲を記録する会」が、戦争体験者の声や平和への思いを次世代につなげたいと、昨年に続き企画した。
 神戸では、市街地や軍事目標(軍需工場・港湾施設など)に対する米軍の攻撃により、1942年4月から1945年8月の終戦間際まで大小合わせて128回の空襲が続いた。特に被害が大きかったのが1945年3月17日の夜間焼夷弾空襲で市内中西部が壊滅的被害を受けた。5月11日には東灘区の川西航空機(現・新明和工業株式会社)の製作所を目標とした爆弾による攻撃、さらに6月5日には垂水区から西宮市までの広範囲にわたる焼夷弾攻撃により、ほぼ神戸市全土が焼け野原と化した。人的被害は死者約7千5百人超、負傷者約1万7千人という惨禍の記録が残るが正確には算定できておらず、実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。
 参加者たちは最初に、同館エントランスで開催している「戦災関連資料展」(主催/神戸市・8月21日終了)を見学した。会場には戦争と神戸の関わりや神戸空襲の実相、兵士の出征、戦時下の市民の生活の様子などを解説したパネルを展示。さらに空襲による被災状況を日時別に色分けした地図や防空頭巾、防毒マスクなどの展示もあり、同会メンバーが詳しく解説した。
 会議室に移動後、神戸空襲についてまとめた動画を視聴し、芦屋市在住の美野欣三郎さん(95歳)の戦争体験を聞いた。1945年3月17日、中学生だった美野さんは両親と3人で住んでいた兵庫区荒田町で空襲に遭った。「家を守る」と断固として動かない父親を置いて母親と2人で山に避難する途中、上空を見るとB–29が見え、そして焼夷弾が投下された。持って来ていた布団を被って、しゃがみこんだその瞬間、大きな爆発音が聞こえた。しばらくして辺りを見渡すと多くの死者が重なり合い、悲惨な光景が広がっていた。足元を見ると土手に大きな穴が空いて紫色の煙が上がっていた。「不発弾だったので助かった!」と九死に一生を得た美野さん。その後、山に向かう途中で後ろを振り返ると視界全部が真っ赤に燃えているのが見え、足がガクガクして震えが止まらなかったと話す。翌日、父親の様子が気になり自宅に戻ると、焼け残った家で父親は真っ黒な顔でご飯を炊いていたという。「両親と握り飯を食べながら生き延びたことを喜び合った。実は父親も避難していたそうだが家を守るため一人で残った父の沈着さを誇らしく思った」と当時を振り返った。
 話の後、子どもたちは順番に美野さんの元に集まり質問をしていた。その後、一人ずつA3サイズの新聞を制作。美野さんへの取材内容に加え、図書館の書籍で調べたり、最初に見学した資料展を参考にするなど、それぞれ興味を持ったテーマで仕上げた。坂井日菜子さん(美野丘小6)は、神戸市の人口の移り変わりをグラフにして、空襲で多くの命が失われたことを書き記した。「こんなに恐ろしいことがあったので、忘れないで伝えていきたい」と力を込めた。弟の玖音さん(同小3)は「(美野さん家族が)みんな無事でよかった」と率直な感想を話した。
 「神戸空襲を記録する会」では、1972年から毎年3月17日に神戸空襲犠牲者合同慰霊祭を薬仙寺(兵庫区今出在家町)で行っている。大倉山公園(中央区楠町)に建立された「神戸空襲を忘れないいのちと平和の碑」には犠牲者の名前が刻まれており、隔年で新たに分かった犠牲者の刻銘追加を続けている。同会事務局長の小城智子さんは体験者の高齢化に伴い、直接話を聞く機会が減っている現状に「話を聞くだけでなく直にインタビューすることで子どもたちが自分事として結び付け、考えて学べる場になれば」と思いを語った。

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