デフサッカーメダリスト GK 則末遼斗選手

垂水区在住で、流通科学大学(西区学園西町)商学部3年の則末遼斗さんは、「大学サッカー(健常)」と「デフサッカー(障がい)」の2つの世界で活躍している。
昨年11月に日本で初開催された「第25回夏季デフリンピック競技大会東京2025」サッカー競技(デフサッカー)で、日本は男女ともに銀メダルを獲得した。同大会は4年ごとに開催される聴覚障がい者を対象とした国際スポーツ大会で、会場は東京を中心に、サッカーは福島県のJヴィレッジで行われた。デフサッカーとは聴覚障がい者のサッカーで、「デフ(deaf)」は英語で「聞こえない人、聞こえにくい人」という意味。基本のルールはサッカーと同じだが、競技中は補聴器を外すことが義務付けられており「音のないサッカー」と呼ばれている。
日本代表として最年少で出場した則末遼斗さんは「メダルを獲れたことは誇りに思うが、自国開催で世界一を目指していたので悔しさの方が大きい」と語る。大会ではイタリア戦に先発出場、「選手の威圧感がハンパなかった」と振り返るが0対0の無失点に抑え、デフリンピック初のメダル獲得に貢献した。
遼斗さんは先天性の感音性難聴で、等級は聴覚障がいではもっとも重い2級。日常の音はほぼ聞こえないため入浴と就寝中以外は常に補聴器を装着している。幼少期は聴覚特別支援学校に5年間、親子で通った。「地域の小学校への通学を目標に必死に頑張った日々でした」と話すのは母親の清美さん。仕事を辞め、支援学校からの帰宅後も舌や息の使い方、気持ちの言語化、話し言葉の発音と修正を何度も繰り返し練習したという。相手の口の動きから読み取る「読唇術」で理解し、練習を重ねた遼斗さんの発音は明瞭である。遼斗さんは「遊びの時間を削ってずっと練習した。そのおかげで今がある」と家族への感謝を口にした。
地元のサッカーチームに入ったのは地域の小学校に入学後、1年生の時に友人に誘われたことがきっかけだった。ドッジボールが得意だったことから5年生からゴールキーパーに。一瞬の判断ミスが失点に繋がり、チームの勝敗に直結するポジションだが「シュートを止めた時の爽快感が最高!やりがいがある」と魅力を語る。
デフサッカーとの出合いは中学2年の時に父親の義幸さんが半ば強引に連れて行った体験イベント。当時の日本代表コーチから球のスピードと威力を絶賛され、同年冬、デフサッカー日本代表候補の合宿に練習生として参加した。これまで耳の聞こえる選手とプレーしていた遼斗さんは、初めて本格的に経験する無音のピッチに戸惑ったという。いつもの声掛けが届かず、アイコンタクトや手話でコミュニケーションを取らなければならない。しかし同時に「耳が聞こえないのは自分だけじゃない。孤独感がなくなり気持ちが楽になった」と胸の内を明かした。
2023年開催の「デフサッカーのワールドカップ」と称される「ろう者サッカー世界選手権大会」では、代表合宿で一緒にプレーした選手らが出場し、準優勝に輝いた。インターネットで試合観戦した遼斗さんは強い憧れを抱き、代表選手になろうと心に誓った。世界基準に合わせた身体づくりに取り組み、手話も学び直すなど努力を重ねた結果、翌24年の大学2年時、正式にデフサッカー日本代表メンバーとして招集された。同年「アジア太平洋ろう者競技大会」では2試合に先発出場し、初の頂点に立った。近年の日本デフサッカーは著しい進化を遂げ強豪への仲間入りを果たしている。
遼斗さんは同大学のサッカー部に所属し、副主将として日々の練習に励む。亀谷涼監督は「日の丸を背負う責任感から自分と真摯に向き合い、感情のムラがなくなった。グラウンドでの発言が変化し、鍛え上げたフィジカル面も強みになっている」と成長ぶりを語る。デフリンピックでは1試合のみの出場だったが「今までは出場できない不満や感情が顔に出ていたけどチームのために何ができるかを考え、誰よりも率先して行動した。弱い自分を克服できたことが今大会の一番の収穫」と振り返る。サッカーの基本レベルを上げてこそ、デフサッカーでのパフォーマンスに繋がると考え、卒業後は企業に勤めながらより高いレベルでのプレーを目指す。「世界一を獲り続けられるチームとなり、個人では最優秀GK賞を3回獲る」と宣言する。自身がデフサッカー選手に憧れたように「同じ立場の子どもたちに夢や勇気を与えられる存在になりたい。そしてデフスポーツの知名度を上げるために自分が先頭に立って頑張りたい」と力強く語る遼斗さんの挑戦は続く。

銀メダルを手にする則末遼斗選手