旧白川村散歩
4月19日(土)、須磨区白川地区にて、旧白川村を歩きながら、歴史や植物について学ぶ「旧白川村散歩」が開催され、約20人が参加した。(主催/名谷ワッショイ)
名谷駅に集合した参加者は70系統白川台行きのバスに乗り、終点白川台で下車。名谷駅からわずか10分ほどだが、バスを降り、少し歩くと駅前とは全く違う里山の景色が広がっている。
案内人を務めたのは、元小学校教諭の「やかちゃん」こと八ヶ代信行さん。今年度は旧白川村のほかにも落合(8/16)、多井畑(9/20)など里山の案内を予定している。
最初に訪れたのは白川台北公園。旧白川村、車、奥畑、妙法寺、多井畑地区には現在53の公園があり、その多くは山や川、谷などに由来する名前が付けられている。この地域は昔、摂津と播磨の国堺になっており、市立白川台中学校北側で発見された国堺の道標石は現在、白川小学校にて保管されている。
次は古来より白川の人々に「天王さん」と呼ばれ、病気平癒・健康成就の社として知られる素盞雄神社へ。元々は白川大歳神社の末社だったが、現在は山伏山神社と合わせた3社を1人の宮司が兼務する。
素盞雄神社から数百m歩いた所には毘沙門堂がある。これは京都南禅寺の塔頭、真乗院の末寺で明治維新後、廃堂となったが昭和55年に再建された。仏教の四天王の1柱である多聞天(毘沙門天)を祀っている。
次は高御座山の夫婦岩へ。山道を登っていくと、上が平らな巨岩が2つある。東側にある「雄高座」は約40畳、西側の「雌高座」は約30畳の大きさ。この2つの岩は神代の昔、イザナギノミコトとイザナミノミコトが日本の国造りを行った後、それぞれこの岩で休んだと言われている。雄高座の上にある窪みに溜まる水は「寿命水」と呼ばれ、子授けや薬水として用いられていた。疱瘡(天然痘)にかかった人が肌を洗うと跡も残らずきれいになったとも伝えられている。
山を下り、白川大歳神社へ向かう途中には日本列島がまだユーラシア大陸から分かれていない頃の地層「神戸層群」がくっきりと見える場所がある。古神戸湖があった一帯で、植物化石が多く発掘された。八ヶ代さんも小学生の時に化石を採った記憶があると話した。
大歳神社の「歳」の字には米の意味があり、稲の豊作を祈る場として、農村部に多い神社の名前である。割拝殿は播磨地方の様式であることから、この辺りが国堺で文化が交流していたことが窺える。境内には樹齢300~400年の大きなクスノキが緑陰を落とす。明治期に開校した白川小学校は昭和46年に現在地に移転するまでこの境内の隣地に所在していた。
その奥に進んでいくと、根本に石を抱き込んだ大きな榧(かや)の木があり、最後は山伏山神社に到着。芸能の神様を祀っているため、昔は兵庫から遊女が参拝に訪れていた。高台にある境内からは眼下に白川村を一望することができた。
初めて参加した須磨区の米田さんは「実際に旧白川村を歩きながら解説を聞いたので腑に落ちる部分がありました」と満足した様子だった。
素戔雄神社の鳥居
「神戸層群」が見える
高台にある山伏山神社