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神戸空襲の体験を語る~戦争の頃の子どもたち~」 神戸市埋蔵文化財センター(西区糀台)

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2月13日(日)、神戸市埋蔵文化財センター(西区糀台)にて「神戸空襲を記録する会」による「神戸空襲の体験を語る~戦争の頃の子どもたち~」の講演会が開催され、親子連れなど多くの市民が集まり耳を傾けた。 講師/小城智子さん、馬場章子さん

 神戸市埋蔵文化財センターでは1月15日から3月6日まで冬季企画展「神戸・うつりかわる町とくらし2~昭和ノスタルジー~」を開催した。1階の企画展示室には以前の企画展で好評だった、昭和時代の生活風景を再現したジオラマや神戸空襲や第二次世界大戦に関する資料を展示。この日はその関連イベントとして「神戸空襲の体験を語る~戦争の頃の子どもたち~」の講演が午前と午後に2回開催された。

神戸空襲は、昭和16年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃から4カ月後、翌年17年にはじまり昭和20年8月15日の終戦前日まで続いた。昭和17年4月、兵庫区中央市場への投弾にはじまり、昭和20年1月19日、明石川崎航空機工場への爆撃で現在の西区が被害、2月4日には兵庫区・長田区の川崎・三菱造船所などの軍需工場が爆撃される。特に3月17日の兵庫区・長田区を中心とした夜間焼夷弾攻撃では被害が大きく約2千人の命が奪われた。5月11日には武庫郡(東灘)の川西航空機深江製作所への爆撃、6月5日の焼夷弾攻撃では、武庫郡(東灘)から灘など神戸の東半分が焦土と化し、須磨の西部も攻撃され、約3千人が犠牲になった。さらに7月24日には原爆模擬爆弾投下訓練のため、長崎原爆と同じ形、同じ大きさの爆弾が神戸市内4カ所へ落とされ、8月に終戦を迎えた。

小城智子さん

講演会ではまず、太平洋戦争末期の米軍による神戸空襲の記憶を伝える市民団体「神戸空襲を記録する会」事務局長の小城智子さんが会の活動を紹介。同会は昭和46年に発足、昭和47年以降特に被害の大きかった3月17日を神戸空襲の日とし、兵庫区の薬仙寺で毎年神戸空襲合同慰霊祭を開いている。当時神戸空襲で亡くなった人の名前を国や自治体が把握してなかったことから、一人ひとりの名前を残しておきたいと昭和53年以来死没者名簿の収集にも取り組んでおり、平成25年8月にはそれまでに集められた犠牲者1752人の名前を刻んだ慰霊碑「神戸空襲を忘れない―命と平和の碑―」を大倉山公園に建立。また戦争の記憶を風化させないよう戦争体験集や焼け残った遺品を「炎の形見」として兵庫図書館戦災記念資料室にて展示。また戦争の爪痕をたどる戦跡ウォークも開催している。  第二次世界大戦による日本の戦死者約300万人のうち半分以上はマラリアなどの病気や餓死が原因で、墓には戦病死と彫られている。神戸空襲の犠牲者は約8000人でそのうち名前が判明しているのはわずか2100人ほどだという。「戦没者のお墓に行った際にはその方が何でお亡くなりになったかぜひ確認してください。そして生きていた証を残すために、名前がわかれば神戸市へぜひとも連絡してほしい」と小城さんは呼びかけた。

馬場章子さん

続いて、灘区鶴甲に住む馬場章子さんが小学校3年生から女学校時代の戦争の体験を語った。馬場さんは昭和6年9月に東灘区魚崎町で生まれ現在91歳。「小学校へ行けるのもお国のために戦った兵隊さんのおかげです」という歌を、入学して一番初めに覚えたという。「小学3年生の時、大好きだった担任の先生が戦地へ出征しとてもさびしかったことを今でも覚えている」と話した。当時は男性が次々と戦地へ赴き、代わりに10代の女性が鉄道駅員、電車の運転手、車掌を担っていた。馬場さんが小学5年生の時には「アメリカとの戦争で日本が勝っており、太平洋の島々を占領した」というニュースしか流れてこず、日本を「神国日本」と教えられたという。

米や野菜、砂糖などの食べ物や日用品はすべて配給制になり、飛行機などの材料となる鉄が不足したため、ドアの取っ手、鍋、釜、お寺の釣り鐘までも国に収められた。アメリカのB29爆撃機による空襲が始まった昭和19年、児童が疎開し空いた小学校は高等女学校(現在の中学〜高校)として利用され、馬場さんは女学校1年生になった。白い校舎は真っ黒に塗られ、周りの民家は強制立ち退きとなり、その家々を壊す役目が馬場さんたち女学生に与えられた。畳や障子、襖などの建具を外し、機械がないため綱引きのロープを柱にかけ30人ほどが素手で何度も引っ張り、倒した。

3月17日、魚崎の夜空に照明弾(目標を照らし出し視界を確保する)が落とされ、花火のような光で街一面が照らされた。敵機はゆっくり西へ移動し、兵庫区・長田区に焼夷弾が投下された。次の日三ノ宮駅に集合命令があり「不発の焼夷弾を見つけたら兵隊さんを呼ぶ」という作業が任命された。焼野原を西に向かう中、行き場を失った小さな子どもたちが肩を寄せ合う姿を目にしても馬場さんたちは何もできなかったという。

5月11日、空襲警報発令に伴い直ちに下校、馬場さんは自宅の防空壕へ入りたい一心で、必死で広い道路を走り、我が家の防空壕に飛び込んだ、と同時に天地がひっくり返るほどの爆音が鳴り響いた。6月5日は、須磨から西宮にかけて広範囲にわたり焼夷弾が落とされた。自分の家は焼け残ったが、東灘区御影町は全滅、帰る家のない戦争孤児がたくさん出た。死体の身元確認を役場から依頼されても焼け焦げて見分けがつかない人も多く、もんぺの柄で見分けたという。馬場さんは「日常生活が当たり前でなくなる、戦争は何もかも失くすのです。平和である世の中が続くことを祈ります」と締めくくった。

野口陽翔さん(舞多聞小3年)は父親の真二さんと弟の蓮翔さん(同小1年)の3人で講演に参加した。「神戸の人口の移り変わりや『ちいちゃんのかげおくり(戦争の悲惨さを伝える絵本)』など、小学校の社会科授業で戦争に関心を持った。中一の女の子が家を解体したなどびっくりする話がたくさんあった。もっと学んでいきたい」と感想を話した。

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