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灘酒の隆盛と重ね蔵

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神戸市埋蔵文化財センター(西区糀台)で2月20日(土)に連続考古学講座「灘酒の隆盛と重ね蔵」が開催され、42名が参加した。
今回の講座の講師はセンターの学芸員で、灘地域の酒蔵の発掘調査や歴史を研究する関野豊さん。「日本酒が大好き。仕事や旅行で酒蔵に行くと専門的な話が尽きない」と話す関野さんだが、実際に仕事で酒蔵の調査に行くと、知れば知るほどよくわかっていないことを痛感したという。はじめに「お酒が嫌いな人はいますか」と質問。手を挙げた参加者は一人もいなかった。今回初めて参加の山岡達夫さん(垂水区)は「この頃家でじっとしていることが多く、散歩がてら参加した。日本酒が好きなので楽しみです」と話した。

最初は伝統的な手づくりの日本酒の作り方を解説。日本酒が出来上がるまでの日数は蒸米から「上槽=搾り」まで約60日。気候条件などで発酵の進み具合が変わり、予定どおりにはいかない難しい作業だという。灘五郷(魚崎郷・御影郷・西郷・今津郷・西宮郷)で江戸時代から近代にかけて灘酒が隆盛を極めたのは、地理的、自然的要因があげられる。瀬戸内の温暖な気候で生育がよく大粒の「摂州米・播州米」が取れたこと、リンやカルシウム、カリウムなどのミネラル豊富な「宮水」を利用していたことなど、歴史を交えて解説。六甲山地から浜側に向けて吹く北風「六甲おろし」により、過剰な醗酵や有害微生物の増殖を抑制できる。寒風の影響を受けた灘の酒造りは、冬に酒造りを行う「寒造り」主体で発展した。
六甲おろしを効率よく利用し、南からの陽光も道具干しに利用するために灘の酒造りは「重ね蔵」という建築様式をとり、日本酒生産能力を最大限に引き上げ、高品質の日本酒を量産していた。また樽廻船の存在や、寒気と積雪のため冬の農耕に向いていなかった丹波地域より冬季のみ出稼ぎにきていた丹波杜氏の存在なども灘地域の酒造りが繁栄した理由となっている。灘にはかつて小規模の蔵元を入れると400軒以上の蔵元が存在したと考えられる。

1659年創業した菊正宗内蔵(御影郷)は、国道43号線建設時に魚崎郷に移転し酒造記念館として公開していたが、阪神淡路大震災で全壊。同じく御影郷にあった白鶴内蔵は、資料から一部を重ね蔵にしていた可能性があるという。酒蔵の建造物はなくなっていても、地下遺構(槽場・釜場など)について、これからも発掘調査していく必要性についても語った。そして、最近の人口減少や若者の飲酒習慣離れなど日本酒の売上不振に言及し、蔵元に主軸商品を守りながら、若者や女性が好む商品開発を行って地酒ブームをつくって欲しいと提言した。

※重ね蔵とは…北側に仕込蔵兼貯蔵庫、南側に前蔵が隣接して建てられ、蔵が重なっていることからそう呼ばれた。
※樽廻船とは…江戸時代に、主に上方から江戸に酒荷を輸送するために用いられた貨物船。

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